【oldradio-net】進駐軍放送物語 WVTR&FEN (転載)2019/07/14 14:48

 かつて厚木の井上様が運営されていたoldradio.netにあった貴重な資料です。
井上様は同webをすでに閉じられてしまいましたので、許可を頂戴しました。
オリジナルはhtmlですが、blogに載せるため、体裁を若干修正させていただきました。
著者紹介は最後に載せてあります。 
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進駐軍放送の思い出

目次
・はじめに
1.WVTR NHK第2を使用
2.カルチャーショック
3.AFRS
4.Wで始まる放送局のコールサインと周波数
5.自動車ラジオ修理から米軍放送局スタッフへ
6.朝霞のFEN
7.110V 60Hzの電源
8.スタジオ
9.スタジオの機器について
10。AFRTS
11.真空管のこと
12.まとめ

・はじめに

 この物語を書くことになったきっかけは、たまたま厚木の井上さんのHPを見て、Hammarlund社の有名なプロ用のSP600JX 受信機、通称スーパープロをリストアされた記事を読んだことに始まります。 苦労して昔の絶妙なダイアルタッチを再現される様子が、いきいきと書かれていて相当なマニアのようです。    
早速私は昭和三年生まれのオールド ボーイだが、この機械を日本人がまだ見たことも、触ったこともない四十数年前に進駐軍放送局勤務をしていたお陰で、修理経験もある懐かしい受信機であること、四台がラックマウントされ、ダイバシティ受信でアメリカ本土からの短波によるニュースを受信していたことなどをメールで送りました。
 早速返事があり、ご自分のホームページに専用の貴重な思い出話のページを作っても良いから、是非原稿を送ってほしい、 とのご好意ある申し出でした。 昔のこと故写真しか残っておらず、以前仲間に配布した自身の経験話『ラジオ屋人生』の一部と写真を参考にお送りしたところ、写真はスキャナーで取り込み拡大しても大丈夫とのこと、何はともあれお会いして話をしようとなり、 ご多忙のなか吉祥寺まで来ていただき食事しながら打合せをしました。                   
               
 占領下アメリカのコールサインであるWVTR、通称RAIDO TOKYO が内幸町のNHK設備を使って770KC(周波数の表示は当時まだHzは使用していませんので、当時のままの表示とします。他も同様当時の呼称とします) 出力10kW で放送を開始したのが、1945年[昭和20年]、9月23日 終戦後わずか1ケ月半後のことで、1952年[昭和27年]7月末まで続きました。 その後サンフランシスコ講和条約が締結され、軍政が終了すると共に接収が解除され、FEN東京となり長く馴染まれましたが、1997年[平成9年]10月から米軍の編成替えにより、現在のAFN東京となったこと、 このWVTR時代の1952年[昭和27年]から 1958年[昭和33年]まで約6年半ほど勤務し、そして今ではWVTRとFEN両方の経験者で生きている技術者は私一人となってしまったことなどをお話し、この際勤務した者の目で見、機械に触った実務的な記録を、当時の世相やエピソードとからめて記憶を掘起こして書いてみようということになったのです。
 出来るだけ正確に書くつもりですが、先日愛宕山のNHK図書館で日本放送史、その他の史料を読んでみたら、当然のことながら日本の放送史であり、駐留軍放送局は当時の郵政省監督外の局のため、あまり記録が残っておらず、また、その記録も私の書き残したメモと食い違っているところもあり、今となっては確かめることができませんが、私のメモに残っているのが多分本当ことだったのではないか、現実に近いのではないかと思えるのです。
しかし、あくまでFEN東京の6年半ほどのことであり、地方にもあった沢山のFEN局については、ほとんど記録がなく、もし勤務された方がご存命で、このページをご覧になって気がつかれたらご連絡をいただきたいと思います。私は一介のエンジニアですから、内容は技術的な面の説明が主となりますが、当時の世相などのことで、間違いやご存知の史料などがあれば、ご教示願えれば幸いです。




1WVTR NHK第2を使用.
 進駐軍の放送は終戦後9月23日に開始されたと書きましたが、電波がこの日に発射されたのか記録としては設置とあるので、NHKの第二放送の設備を使用しての放送ですから、技術的には可能だったかもしれませんが、ハッキリした記録はありません。
私が入った頃は返還が進み二階と一階を使用して、一階が事務所、主調整室とスタジオは2階にあり、レコード ライブラリイ もありました。 私がここに職を得た昭和27年の日記帳にライン関係のメモが残っています。もうこの時は出力が50KWに増力され、短波放送も始めていた時で、以下のようなものです。
 
 東京から鳩ヶ谷放送所[NHKでは送信所と呼ばない]へのライン、大阪送り、仙台送りのライン、仙台から八戸へ分岐ライン、 八俣および名崎送り[短波用]のライン、これは当時の国際電気通信会社、今のKDDの短波送信設備です。 ほかにGHQ、BBC、VOA、LOSなどのライン名前が残っています。多分モニター用に送受したのでしょうが、我々日本人エンジニアは保守が仕事で、オペレーターは全部兵隊、あの頃は『 G I [Government issueの略]と呼んでましたね』 がやっていましたので新入りの私はメモっていても細かいことは記憶に残っていません。 


写真の故中島君がマスターに座ってツマミを触っているところが主調整室で、上に、VUメーターがずらりとならんでいるのが、各ライン送りの出力監視用のもので横河電機のものです。横河電機のVUメーターは50μAの高感度のもので針の振れ具合が、音声や音楽の強弱と聴感が一致した優れ物でした。
 我々のチーフは菅谷幹人[故人]さんと言う方で、NHKからの労務提供でしたが、話が面白い人で陽気でアメリカ人に好かれ、私が入った少し前のことを面白可笑しく話しをしてくれました。接収当時は4階までアメリカ軍が使用し、そこから向かい側の大阪商船ビルが婦人部隊[WAC]の宿舎で、シャワーを浴びたあと、スッ裸で涼んでるのが望遠鏡でよく見えたとか、地下にG I の秘密の部屋があり、いかがわしいパンパン[これも死語か]を連れ込んで交代で見張りをしたとか、ある日スタジオで放送終了後ポカーをやっていて、うっかりマイクがONになっていたら、鳩ヶ谷のNHKの人が放送延長と思い、そのまま汚い言葉が行き交う様子が放送されてしまい、MPに踏み込まれ一網打尽になった話など、戦後すぐの頃はかなりデタラメなこともあったようです。
 WVTRの周波数が770KCであったことは、たまたまある方の原稿を見せられ、810KCとなっていたのを見て、770KCに訂正してもらいましたが、すっかり忘れていた何十年も前のことを思い出したのです。それは、WVTRのアナウンサーが『Seven Seventy On Your Dial 』 と実に調子よく喋っていたのを、英語はDJ用としてなんとスマートで耳に心地よい言葉なんだろうと感じたことでした。 
今のFM放送など、日本の局なのかと思うほど英語の氾濫ですが、やはりテンポとスムースさは日本語にはないものでしょう。今回この物語を書くにあたり、愛宕山のNHK図書館で調べたことは前回述べましたが、AFRS局の周波数の記録が残っていません。 また、AFRSの局はコールサインはあるが局名がありません。東京のWVTRは通称RADIO TOKYOと称していましたが、あくまで通称で正式名ではなく、放送会館の入り口にその看板がありましたが、やがてNHKの接収を解除し、FEN東京になることが決まり、TBSが開局時 [ラジオ東京]の名称を使用することが゛可能となります。

(オリジナルのwebにこの写真はありませんでしたが。著者が別のweb(*)に投稿された格好の写真を発見しました。ご健在の著者の許可を得て、その画像をここに埋め込みました。内幸町の放送会館<写真内左下に文字が見えます>が接収されたそうです。同じく左下にRADIO TOKYOの文字がみえます。後の民放JOKR<ラジオ東京 今はTBSラジオ>とは関係ありません。)

2.カルチャーショック
 戦後の焼け野が原になった東京に進駐してきたアメリカ軍とその家族の生活全てが、我々世代の人間には強烈なカルチャーショツクを与えました。彼らの物資の豊富さ、技術の高さ、見るもの聞くものがあまりにも当時の敗戦で困窮した日本に比べ、違う次元だったのは多くの方が書かれています。
特に音楽関係者は米軍放送から流れてくる、JAZZに影響された方は数知れずでしょう。日本人は一口にJAZZと言っていましたが、彼らのレコードライブラリイの分類では、 ポヒュラー、となります、他に、ウェスタン、セミクラシック、およびクラシックと分類されていました。要するにアメリカンポップスに影響され、多くのミュージシャンが米軍キャンプのクラブを稼ぎ場所とし、戦後のJAZZ歌手の大半は米軍クラブ育ち、といっても過言て゛はありません。楽器ができる学生が米軍キャンプのクラブでアルバイトし、それが本職になった方々は枚挙にいとまありません。 比較的裕福だった学生が多い、慶応、学習院などの出身者が多いのは、家庭にピアノか何らかの楽器が身近だったからでしょう。
 これら日本人が影響された音楽の元は、ロサンジェルスに本部がありました、Armed
Forces Radio Service 通称AFRSから空輸されていました。
16インチのLPと同じビニールにプレスされた、ブロードキャスト トランスクリプションと呼ばれる特殊なもので、33回転片面15分、針がLPよりも太いものです。アメリカは商業放送のみですから、CMをカットし編集されたものを米軍放送局用にわざわざレコードをプレスしていたのです。世界中に点在していた局が何局あったか知りませんが、私の知る限りでは、ドイツにダニューブネットワーク、台湾、朝鮮戦争後の韓国、などにありました、専用のレコードをプレスした数がどれぐらいあったのでしょうか? いかにも物量豊富なアメリカ的処理方法です。このレコードを番組編成表に従って再生いるだけで、15分に1回レコードをひっくり返せば良く、NHKの78回転レコードに比べ楽なもんです。アメリカ式のワンマンDJはそれ用に作ったFENスタジオから出すようになり、NHKスタジオからの放送は頃は主としてレコードの再生による放送でした。私が勤務していた間番組がテープで配布されたことはありません。今は通信衛星からの供給になってるようです。
 
 WVTRで放送していた頃はNHKの第二放送用の鳩ヶ谷送信所と会館2Fkスタジオ設備を使用していたのですが、放送技術でも画期的な変化をもたらします。NHKは東芝のA型ベロシティーマイクと数種のダイナミックマイクを使用していましたが、米軍は最新のマイクロホンを持ち込み、RCAの77D、44BXおよひびBK5を使用しました。 RCA77Dは指向性可変のベロシティ、当時としては画期的なもので、NHKにも1949年貸与されています。 ベロシティ通称ベロと言っていたのは、マイクの呼び方を動作原理と形状での分け方とが混在し、形状ではリボン型、動作原理ではベロシティは同じものです。ベロシティは、強力な磁石の間に張ったアルミ箔の速度変化(Velocity)に比例した出力が得られるからで、それまでのものは8の字型の指向性だったのを、ドライバーで Uni Directionl(単一指向性) 8の字型、 Non Directional、〔無指向性) L1 L2 L3(L3が一番単一指向性に近くなる)と切り替えられ、底部には音質を M V1 V2の三段低音切り替えスイッチがあり、今でも77Dは時々画面で見受けられます。 44BXは8の字型で東芝のAベロによく似ていますが、底部の蓋を開けて音質が77Dと同様切り替えられます。 77Dの筐体は最初ステンレスでピカピカでしたが、TVが始まると茶色の艶消しになりました、便利なのでワイヤレスマイクの良いものが出るまで、よく使用されていました。
  その他、音盤録音機はプレスト社のものを持ち込みます、まだ携帯型のデンスケのような物がなく、かなり重いマグネコーダーを担いでAC電源のあるところでしか録音できなかったのですが、放送にはテープを使用せず、いちいちシェラック盤に円盤録音機でカッテングするのです。アルミの16インチ円盤にニスのようなものがある厚みに塗布され、それをダイヤモンド針でカッティングする、要するにレコードの原盤作りと同じことをするのですが、内側から外側にカッティングするのが普通で、それは切り屑を取り除く必要がないからです、外側からも送りの歯車を変えればできますが、いちいち切り屑を刷毛でとる作業が要るからで、1回しか使用しない短いコメント用の素材ですから手間をかけません。 このカッテングヘッドを駆動するのに、807パラPPアンプを使用しているのには驚きでした。
33回転のリムドライブのターンテーブルでしたが、NHKではテレフンケンの78回転のものを使用していました、音質は比較にならないほどプレスト社のものが良く、NHKは円盤録音機も貸与され、メーカーと共同で開発に取り組んでいくことになります。



3.AFRS


 今回この物語を書くにあたって色々検索してみると、私の知らなかったことが沢山ありました。 AFRSの歴史は結構古く、最初は1942年5月アラスカに開局し、太平洋戦争で米軍が日本軍を追い詰めるにつれ、ニューギニア、フイリッピン、硫黄島、サイパン島と軍と共に北上して放送局を作ったようです。
サイパン島では日本向けの[アメリカの声]として、1010KCで宣伝放送をやったり、移動放送船アパッチ号WVLCで海上からの放送をやっていますが、我々の並4受信機では聴こえなかったので知りませんでしたし、周囲の人のなかでこれらの放送を聴いたと言う話はありません。軍の情報関係者などは把握していたのでしょうが、一般には知られていません。 いずれにしてもこれらの放送はVOAの担当でAFRSとは別個のものの筈で、VOAはCIAの担当で軍の組織であるAFRSとは別の組織で放送していたと考えられます。日本もプロカバンダ放送をやっていて、アメリカ軍から東京ローズの愛称で有名になった女性アナが終戦後、アメリカ国籍だったアィヴァ郁子が帰国後反逆罪で有罪となった悲劇がありました。
 さて、日本におけるAFRSの最初の局は既に占領下の沖縄のWXLH局と思われますが、マイクロ回線が整備されるまでFENのネットワークとは別に独自の放送をやっていたそうです。
日本の無条件降伏により、1945年8月30日マッカーサー元帥の厚木飛行場にバターン号からコーンパイプを咥えて降り立つ、有名な写真がありますが、その2日前に先遣隊が厚木から横浜に今の16号線を走行し、ホテル ニューグランドに到着しています。マ元帥も東京には向かわず、ホテル ニューグランドに到着します。  31日には早くもAFRS横浜支部が開設され、日本政府に口頭で[占領軍向けの放送設備を提供せよ]と命令します。 マ元帥達が横浜に向かったのは横浜桟橋から降伏調印式に向かうためで、 9月2日駆逐艦ブキャナン号に乗船し、戦艦ミズリー号を目指します。遅れて日本政府の代表として重光外相他随員も横浜から駆逐艦ランズタウン号に乗船し、調印式に臨みます。 その調印式が実況放送されていたらしいことが分り、何とか裏づけをとりたいと思い色々調べた結果、ようやく発見しました。
 それは、重光 葵全権大使の随員として当時外務省情報部長だった、加瀬俊一氏の回想録のなかに、調印式終了後、再びランズタウン号で横浜に帰港する途中、『この時、暗雲散じて青空に明るく太陽が輝き始めたが、VJデーを慶祝して400機のB29と1500機の艦載機が、一大ページェントを展開した。その轟音の間から、マッカーサー元帥の本国向けの放送が流される。これがまた流麗豪壮な演説であるが、日本についてもその将来を期待して云々』とあったので艦内でこの放送を聴かれていたのは確かです。 
この放送がどのようにしてなされたのか、本国向けと書いてありますから恐らく短波による放送と考えられます、マ元帥の降伏調印式の名演説は有名ですが、 加瀬さんはその演説を生で聞いておら れていますから、その演説が艦内に流れと言うことは、流麗な演説が生で放送された後、それを録音再生放送したものだったのかはハッキリしません。また、放送方法も移動放送船アパッチを使ったのか、海軍の無線で中継されたのか、どの周波数を使用したのか、AFRS が関与したのか、 細かいところまでは今のところ確証がありませんが、 放送されていたのは事実のようです。
 話がそれてしまいましたが、東京に進駐した米軍は焼け残った目ぼしいビルや住宅を接収、GHQは第一生命ビルに事務所を構え、占領政策を遂行はじめ、前述のようにNHKも一部が接収され、なかに情報教育局 (CIE) と民間検閲局 (CCD) が入り、AFRSの放送局の建設と共に、NHKにはGHQから日本に対する覚書として、報道、慰安、情報、教養および広告の放送 (日本にはまだ民間放送がなかったが) に関して、尊守すべき規律と指令、 ゆわゆる [ラジオ コード] と言われる命令を出します。 NHKの放送原稿は24時間前に検閲を受けて放送されていました。 我々庶民の封書でさえ時々開けられ検閲済みのハンコが押されて、開けたところはセロテープで閉じてあり,そのセロテープでさえこんな便利な物があるのかと驚いていました。 隔世の感ありです。
NHKの放送はアメリカの Twenty Question が 二十の扉 など同様にアメリカの番組のコピー番組が組まれ、街頭録音、真相はかうだ、(ミス打ちではなくまだ旧かな使いでした) とんち教室などなど、戦前の放送とは全く内容が変わり、民主主義の教育に沿ったものになっていきます。
今ではすっかり定着したNHKの名前でさえ、それまでは政府管轄の社団法人から特殊法人日本放送協会となり、放送の自由化に伴いGHQの指導でアルファベット三文字の略称を決めるように言われ、1950年の6月からNHKの呼称を使用するようになったのです。

4.Wで始まる放送局のコールサインと周波数  (周波数はKC キロサイクル)
 戦後すでに60年を過ぎ、WVTRほかWで始まるアメリカのコールサインの放送局が日本全国にあったことなど、我々昭和シングルか少し後世代しか憶えていない時代になりましたか゛、1945年から1952年まで実に多くの局がありました。前述のように1945年9月23日が放送開始であったのは、その後の調査でも大阪で開局したWVTQも同日だったので間違いないようですが、日本本土の放送一番乗りは横浜市で野戦用のバン二台による放送との説もあり、これは臨時の物ですから調べようがありませんので、やはりNHKに労務の提供を命じた9月23日が正しいようです。これらの歴史は本稿の主題ではないので、その方の専門家にまかし、主な局を揚げると次のとおりです。

この画像は、クリックすると大きくなって見やすくなります。)


その他 広島 三保 松山 岡山 敦賀 佐賀 芦屋(福岡県) など全部が一緒に開局したわけではなく、朝鮮戦争が始まり、マ元帥の解任などもあり軍の兵站基地と化した日本駐留の軍隊の編成移動に合わせて作ったので、拡大、移動、縮小が目まぐるしく、とても正確なことは分りません。中継局は250Wから50Wまで色々で、離れた局は同一周波数を使用しています。佐賀にはそれまで全てNHKの設備だったのが、初めてアメリカ製の送信機が設置され、一時は10KWの時もあったようですが、朝鮮に持っていったようです。コールサインと時期が重複していたり正確ではありません、史料によって記述が違っていて、今後史料が出てくれば訂正しますが、ともかくこんなに多くのWがつくアメリカのコールサイン局が存在した時期があったのです。
これらと別に、英軍共同体占領軍(BCOF)の放送局が呉に 1470KC 200W と 6105KC 1KW で一時放送していたとは初めて知りました。
 設備は前述のようにNHKの第二放送のものを使用し、労務も提供させていたのですが、一部の機械はアメリカの物だったので、WVTRには専用の発電機が設置され、115V 60サイクルを供給していました。 プ
レスト社の円盤録音機、16吋レコード用のRCAターンテイブル、RCAの局用アンブなど用です。
入局して最初に驚いたのは我々の部屋にあったRCAのモニタースピーカー LC1A 16吋ウーハーに同軸2吋ツイターでした。 日本では8吋がせいぜいで、 2WAYスピーカーなどまだ無かった時代て゛す。 これを局用モニターアンプ RCA BA14 と言う6L6PPアンプで駆動した時の大音量には驚きました。

5.自動車ラジオ修理から米軍放送局スタッフへ
1952年(昭和27年)4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、軍政から民政に移行となり、私の快適だった内幸町の放送会館勤務も、僅か一年で翌1953年6月で終わりとなり、新たに埼玉朝霞のキャンプドレイクにスタジオを建設し、送信アンテナも桃手地区(今の和光市南)に建て、FEN東京と呼称も変わることになります。
 そもそも私が米軍放送局に勤務するようになったのは、全く偶然で、それまでは当時クライスラー社の総代理店だった自動車会社で、米車のラジオを修理出来る人間を探していたのを知り、ツテで入社しついでに電装品も戦前の車しか知らない自動車屋に重宝がられ、4年半ほど勤務していました。
ある日WVTRのチーフエンジニアの車を関さんと言う方が、運転してメンテナンスに来て、雑談から民放ができたため、技術者を引き抜かれて補充するんだが、適当な人が居ないかと言うのです、そろそろ車のことも分って本職になりたい時期だったので、これ幸いと手を揚げて面接に行きましたところ、すぐ来てくれとなり、放送局のことは何も知らなかったのですが入局となりました。 今のようなリクルート服で就職運動とは大違いの時代で、人生の岐路はこんなことで決まったのでした。
放送会館では忘れられないことが二つあり、一つはレコード室に故笈田俊夫さんと、ペギー葉山さんがよく来てレコードを聴いていました。笈田さんは我々のチーフ菅谷さんと仲間で、当時銀座でティーブ釜萢(ムッシュ釜萢の父)がジャズ学校を開いており、日本人で唯一人ハリウッドで助演女優賞のオスカー像を持つ、ナンシー梅木さんらと一緒だった関係で、菅谷さんは技術顧問のような形でした。 笈田さんが菅谷さんの愛称、スギとアメリカ人が呼んでいましたので、よく [スギ居る?]と入ってきてました。
ペギーはたまたま小学校の同級生かがレコード室勤務していたので、彼を訪ねて来ていたのですが、まだ青山学院の学生時代だったと思います。米軍のレコード室は最新のレコードの宝庫、今のようにコピー機が無い時代、写譜をしていたのでしょう。 数年後私がラジオ関東[今のラジオ日本]に移ったら一週間に一度お二人の歌を録音することになり、不思議なめぐり合わせに驚いたものです。
もう一人は土曜の夜にウェスタンバンドの録音があり、アメリカ人のメンバーのなかに一人日本人の若者がベースを弾いていて、我々にも[こんばんわ]とも言わず録音中も一言も喋らず、黙々とベースを弾いて帰っていくのです。その後NTVに入った仲間に面会しに行ったら、その若者がすぐそばで身上書のようなものを書いているではありませんか、あぁ彼もNTVに入社希望なのだなと分りました。
やがてテレビが段々力を付けて音楽番組の嚆矢として有名な、あの草笛光子の『光子の窓』の担当Pとして有名になった井原忠高氏の若い時の姿だったのです。まだ学習院の学生の頃、黒田美治などと ワゴンマスターズやチャツク ワゴンボーイズなどをやっていた頃だったのでしょう。 やがて音楽番組ではめきめき頭角を現して制作局長までになり、今はハワイで悠々自適だそうです。

6.朝霞のFEN
 当時の朝霞は埼玉県北足立郡朝霞、内幸町のNHK放送会館に比べ田舎でした。
今では池袋から準急で15分の東京の通勤圏ですが、池袋から専用のキャンプ行き帝産バスで川越街道を走って行くのですが、川越街道も一部未舗装でろくに信号もない田舎道でした。
バスには未だ女性の車掌さんが乗っていて、途中オーバーヒートすると用意してあるバケツの水を入れるオンボロバスでした。 私の住まいは世田谷の等々力でしたから、2時間近くかかります
バスも通勤時は30分毎、日中は一時間に1回しかなく、夜勤があったのでまだ我慢できました。


スタジオは木造の平屋で写真のように、こじんまりしたもので主調整室の前がワンマン用のブース、左右に大小二つの録音スタジオが配置され、両側はエンシジニアの部屋とニュース部屋、や録音室その他現場の事務所、本部や兵隊の居住兵舎は少し離れた別棟にありました。
将校や軍属など家族持ちは今の光ケ丘団地になっている、グランド ハイツから自分の車や
米軍バスで通勤していました。  アメリカ人は何処へ行っても本国の生活レベルを維持したいらしく、何処のキャンプもハイツも広大な敷地に芝生を植え、スチームパイプを埋めて暖房を下着一枚でも過ごせるようにします。 広い芝生の庭にポツンポツンと建つ一軒家は今思えば大した家ではないのですが、当時の我々から見ると生活レベルが高く羨ましく思ったものです。
さて、ラジオの放送設備はNHKもFENも基本的には同じで、アメリカ製の最新機器を揃えた物
になりましたが、少し違うのは、パッチングボードとジャツクが日本では、昔交換手が電話接続に使用していた、110プラグとジャツクを使用してましたが、アメリカはシングルジャツクが二つで一本のパッチングコードになっていて、ジャツクが倍必要になりますが、接続の確実性は優れています。
NHKでは110プラグは暇な時に金属磨きでピカピカにして置くのが技術者の基本でした。
今では電子式のマトリックス回路で瞬時に切り替えられますが、当時は基本回路は全てジャツクを介して接続されていて、故障時、臨時の回路を構成する時は、パッチングコードで回路を切り替えてたり、測定時はラインとアンプを接続しているジャツクにパッチングコードを差し込めば、それぞれを単独に測定できるわけです。



7.110V 60Hzの電源
 アメリカは115V 60サイクルですから、電源は鉛電池でDCモーターによるAC
発電機を回す無停電装置で供給していました。 アンプ類はそれで良いのですが、ターンテーブルなどはより正確なサイラトロンを使用した電源があり、これはチューニングフォーク、即ち音叉による正確な60サイクルを発生させるのです。 12AU7を使用したOSC回路でしたが、別に同じ球の可変OSCがあり、切り替えればプラスマイナス2サイクルの範囲で変化可能になっていました。
 
ターンテーブルは放送用がRCA製、センタードライブ式33と78の2モーターでしたが、自社が開発した45回転のドーナツ盤のため、シャフトの中間に後から付け足した78を45に落とす 装置がありましたが、FENは殆ど33しか使用してないので無用の物でした、本土の民間局 には必要だったのでしょう。 いささか苦しい工夫と見受けました。
プレスト社の円盤録音機はリムドライブ、テープレコーダーはアンペックス350のモーターと録音室にテープのFFとREWモーターのスピードが可変なので便利な、スタンシル ホフマンと言うテレコもこのサイラトロンの電源を使用していましたが、サイラトロンは寿命が短く頻繁に交換が必要でした。SP600とR390が写っている写真の右に、丸いメーターが三個並んだのがこの電源装置で中央が共振振動式のサイクルメーターです。


SP600はその後R390に更新されたのは、写真でもわかりますが、これらの受信機は局舎
の側に木柱約30mの高さのダイバシティ受信アンテナが4本建ててあり、本国からのニュースを受信してニュース゛ルームに送っていて、状態が良いときは日中でも受信できていました。


勿論今では衛星からですが、50年も経っているのにマニアによって、これらの受信機はリストアされ、当時の性能を保っているのには感心します。 私は何度かこれらの機械を修理し、その技術の高さにハムで自作する意欲が湧かなくなり、昭和45年になってようやくハムを始めました。
オーデオも同じで未だに紺屋の白袴です。 特にR390がきた時はなんでこんな物を作ったのかいささか疑問に思いました。 彼らもこの機械にはBoat Anchorと綽名しているのはうまく言い当てています。 ラックマウントするのに4人がかりでないとだめでしたが、ダイヤルをモーターで駆動するタイプもあるとか、本当でしょうか。
SP600の頃から球がミニチュアチューブになり、コンデンサーも蝋で固めた紙チューブラCから、カラーコードのモールドタイプのCになりましたが、案外パンクが多かったのは意外でした。
R390には初めてIFにメカニカルフィルターが採用され、これが故障して分解し中身を見た時動作原理が理解できませんでした。 今でも、ハムフェアにR390が売り出されたりしてますが、周波数切り替えのメカは私が知っている物とかなり変化していて、初期の物はもっとカムが多くギャーが少なかったと記憶しています。 軍用ですからメーカーが何社か製造しても、規格は同じ筈ですが、少しづつ改良が加えられたのでしょう。

8.スタジオ
 当時の日本のスタジオとアメリカのスタジオの違いは、アメリカはワンマンDJ用のアナウンスブースがあったことです。今では日本でもありますが、主調整室の正面にこれがあり、写真のようにアナの前にWESTERNの639Bマイクが見えます。(その後ALTECブランドに変わった)
TTが3台、テレコは置いてありません。 WEのこのマイクは剣道のお面のような独特の形をしていて、中の上にリボンマイク、下にダイナミックの二つのマイクが入っていて、それぞれ単独でも使えるし、両方を使うと後ろの位相が打ち消し合い、前面は合成されて綺麗なカーディオイド型の単一指向性となります。スタジオでは通常リボンを使います。
RCA77Dのリボンはヒダが全部についていますが、WEのはヒダが上下にしかついてないので、吹かれに強く屋外でダイナミックマイクとして使っても、風などあまり気にしなくてもよい丈夫さがいかにもWEらしいマイクです。
アナブースは狭くDJの語源のように、両側のTTを操作しながらマイクに向かう格好は騎手に似ています。調整卓はRCAの入力6CH,CH1 とCH2があり通常はCH1を常用し、故障などの時は瞬時に切り換えます。
放送用の機材は原則として必ず予備の回路があり、出力もL1とLの2系統で片方は予備, ATTは丸型、ツマミも丸型が当時標準でした。 
番組素材にテープはなく、テープで取材したものもは円盤録音機でシェラック盤に切って持ち込みます。アナは兵隊で将校はいません、CMがない分楽で経験者でなくとも皆こなしていましたが、俳優出身が多く、TVやハリウッド映画で、 あっ、あの男だと気付くことがよくあり、古いところではTVの『The FBI』の主役 エフレム ジンバリストJr の相棒役のウイリアム  レーノズルはアナウンサーでしたし、中堅俳優のジョージ ケネデイは陸軍大尉でニュース室にニュース室にいました、TVや映画で時々見覚えのある顔に出会ったものです。
 当時は短波2波も出していましたので、番組の切れ目に入れるステイションIDの時は、短波だけマスターで別にシェラック盤に録音したIDを入れるのです、時報は装置が無くNHKの時報音を聞きながら、ボタンを押すのですが、彼らは大雑把ですから少しぐらいずれても平気です。
私達も時々兵隊が用足しに席を外した時はこれらの操作を替わってやっていました。
主調にはAMPEX350が二台あり、放送を常時録音していましたが、時々切り替え時に忘れるので、私がリレーで自動スタートに改造したら、アメリカのチーフがあだ名から、ミスターUOと呼ぶようになり、以来技術的に認めるようになりました。
もう一人の送信所の仲間が5球スーパーを配線図無しで組み立てていたら、送信所々長が配線図無しで作れるのか?と驚いていたなど、彼らは我々の技術をやや下に見ていた節があり、段々後半には力を認め、大抵のことは我々に任せるようになりました。
 
館内の事務室同士の連絡はインターホンが主で、内線電話はあまりありません、今のような物ではなく、プレストークタイプでハムに似ていますが、連絡の室番のキーを上げるか、一斉指令の時は全部のキーを上げるだけでよいし、スピーカーによる呼び出しなので、使い勝手が良い物でした。 館内モニター切り替えは各室にポジション NO,1がエアモニター、2が送信所送りライン出力、3が主調出力、4がアナブース出力となっていて、放送断が何処かすぐ分るようになっていました。  
モニターアンプは前述のBA-14と言う6L6PPかBAー13と言う6L6シングルアンプがあり、また、有名なオルソン氏設計のSP BOXが一つあり、夜勤の時に裏の板を外して中身を見たのですが、スピーカーは八吋の物で、バックローテ゛ィング ホーンBOXのダクトの長いこと、複雑な木工細工でとても自作できるような物ではありませんでした。   
                     
9.スタジオの機器について 
 第二スタジオの調整卓はめずらしいWEのものて゛した。RCAと違ってドイツ製かと思うほど重厚な感じで、黒に銀色の縁取りで如何にも業務用と言った風格があって好きでした。
WE社は元々AT&T社の製造部門をやっていた会社で、業務用しか作っていないだけあって電話関連やトーキーと軍用、政府向き機器を主とし、RCAのように民生品は手掛けていません。 放送機材はそんなに多くはなく、4CHポータブルミクサーなどもありますが、調整卓はこれ以外見たことがありません。球は特殊で、トップに1603これは6C6の低雑音球、348A は6J7相当、349Aは6F6相当、351A は6X5相当、274Aは5Z3相当、オーテ゜イオファン垂涎の300Bは真空管式安定化電源のシリーズ管に使っていましたね、贅沢なものです。
モニターアンプは349APPでした。
WE社はオーディオ部門をALTECに移譲してしまいましたが、やはりALTECはWEの血を引いた感じがするのはご存知の通りです。
WEの球はフィラメント電流が相当管の3倍ですから、電源を入れて1分ぐらいしないと安定しません。エマージェンシイの時は相当管を使用しても可とは書いてありますが、断線やエミ減には無縁のようです。業務用の調整卓にWE社の他、真空管式の安定化電源を備えていたのは見たことがありません。
その他のトランスにしても民生品の三倍ぐらい余裕を見てありますから、故障とは無縁で世のWEファンが多いのも頷けますが、中国製やソ連製の300Bまであるのは、私には一種の宗教みたいに感じられます。
プロ用機器とはこういう物だと言う見本みたいな、なによりも安定性を重視し、故障することが考えられないような卓でしたが、残念なからWEの卓は安っぽいメーカーの名前も忘れましたが、更新され6AQ5PPがモニターアンプの卓になってしまい、WEの卓に比べると発熱の高さに驚くほどの物になってこんなに熱くなってもよいのかと思うほどでした。
当時のマイク入力にはCANNONのXLRと同じ構造ですが、直径が3倍ほどの大型のものでマイクの数が多くなって今の形に小型化されたのです。これは全ての機器や部品に言えることで、R390のような物はあの時代がピークだったのでしよう。
測定器はチューブチェツカーがHitchcook,でしたが、使い勝手が良く、球のデーターが印刷されたロール状の紙を回転させて窓に表示し、そのデーターにツマミを合わせて測定します。  コンデンサーチッカーがHewlet Packard、テスターTSー352、歪率計のメーカーは思い出せません。その他色々ありました。
テープレコーダーとアンプ類は週に一度、球のチェックと周波数特性と歪率測定をするのですが、そんなにしなくてもよいので、適当に手抜きして書き入れていました。
米軍は物資豊富なので、必要以上に球などの補給があり、適当にもらって一時は500本ほど持っていましたが、必要なものだけ残し処分してしまいました、今のように球のアンプが見直される時代が来るとは思わず、残念なことをしたと悔やんでおります。


 
10.AFRTS
写真にも写っていますが、マグネコーダー録音機がラックマウントされています。この機械は本来可般用で、まだデンスケのような電池で動くテレコが無かった外録用の物で、もう一台ケースに入った外録用があり、重くて兵隊が両手にぶら下げて出掛けていました、若く力があるので持てましたが、我々には重すぎました。 後にDENONさんがそっくりの物を作っています。 ドイツ製のワイヤー録音機を見かけたことがありますが、ワイヤーが切れやすく、切れると繋ぐのが大変だし、ヘッドの磨耗も早いので米軍は実用にしていません。
中継用無線機は我々にはタッチさせなかったので、詳細は不明ですが、MPのジープにも長いアンテナが付いていたのと同じ60MHzの、広帯域タイプ中継用無線機と思われます。送信所の50K送信機はGATESとRCAを使用していました。当時は送信所までラインのみでマイクロ回線は無かったと記憶しています。 810KHzのアンテナは今も元のところにありますが、当時は短波も2波 6.115MHzと 3.910MHzを出していて両方で8万坪という広大な土地を占領して波を出していました。
 FENが全国に展開していた局も時代と共に減少し、1956年頃には下記のようになっていました。 西から
佐世保、熊本、九州、別府、岩国、神戸、大津、奈良、三保、名古屋、東京、仙台、新潟、八戸、北海道となり、さらに廃止局が増え、私の辞めた後、スダジオは横田基地の米軍住宅の中に建設され、局も現在は 
東京 810KHz 50KW
岩国 1575KHz 1KW
三沢 1575KHz 600W
佐世保 1575 KHz 250W
嘉手納 648KHz 10KW
となり、名称もTVを始めたので、AFRSTの一部門となり、更に組織変更で今の AFN (American Forces NetWark)と変わりました。 同一周波数は距離が遠いので障害にならないからです。
 一度辞めた後、横田のスタジオに遊びに行きましたが、すっかり様変わりして知った顔は数人しか残っておらず、機械も自動化されていました。その他印象深いのは、1979年の台風20号による810KHzアンテナの倒壊です。 参考のため見に行きましたが、 メインの放送アンテナが倒壊していました。 
あそこにはもう一本同じアンテナがありますがあれはリフレクターです、したがって埼玉方面は極端に電波が弱く、横須賀方面に指向性を持たせてあるのです。  
倒壊したアンテナは初めて近くで見ましたが、通信隊が立てたもので、三角柱アンテナに支線がスチールワイヤーでなく、番線を束ねた支線で貧弱なものて゛した。 彼らは20年ぐらいしか持たないと考えていたものだからこんなに長く持ったら上等だ、と割り切った考え方でその後予備のアンテナを建てたのですが、今は無いようです。
一時AFNが保守のため長く停波していたことがあり、民放のようにCMがありませんし、郵政の管轄外ですから随分長く止めていました。修理は日本のメーカーに支線をスチールワイヤーに変えさせたと聞きました。
810KHzは交通情報の1620KHzの2分の一ですから、アンテナの近くに行くと、第二高調波でAFNがよく入感します、第二高調波は基本波の60BD以下が規定ですが、検査対象外なので、どのぐらい出てるかは不明です。大泉学園や関越の練馬インター辺りで両方ビートもなく聴こえますから試して下さい。
810KHzの周波数は10KHZセパレーションから9KHzセパレーションになった今、9の整数て゛は900KHzと二つだけが半端がない一番よい周波数です。当時開発途上国の多いアジアではコストの安い中波放送の需要が多く、アジアだけが局数を増やすためにこうしたのですが、アメリカや欧州ではまだ10KHzセパレーションのままの筈です。

11.真空管の事
 私がFEN東京に在職したのは、1952年6月から1958年9月ですから、前述のようにRCAアンプの球はメタル球で、少々落としても割れない丈夫なため、軍用には多く使われていましたが、SP600にはもうミニチュア球(MT球)が使われて始め、8ピンのオクタル球と混在していた時期です。
 日本では国民型と言われた、いわゆる並4式の再生バリコンで音量を調整していた戦前型のラジオから、ST球を使った5球スーパーにが普及しはじめた頃です。
 今、一部のオーデオマニアが球アンプの良さを見直し、高級な球アンプも売っていますが、若い方にも少ない数ですがファンがいるようです。 検索して見ると中には球の作り方を教えて下さい?などの珍問もあり、自作しようと言う熱意は買いますが、時代を感じてしまいます。 
古い方は知ってることですが、球のフィラメントがなぜ6.3Vとか12.6と中途半端なのは初期のラジオは電池式でしたが、やがて車社会となったアメリカは車の鉛電池のワンセルが2.1V その三倍の6.3Vを車が採用したから便利だったからでしょう。
後にアメ車も12Vになりましたが、欧州車は12Vでした。 12AU7のように直列にすれば12.6V、並列なら6.3Vとなるのはやはり6.3VがAC電源になってトランスを使うようになっても主流だからで、整流球の大型は5Vが多いのはトランスになって絶縁度を求められて別回路になったためと考えられます。
 基本的には球は同じ記号の球なら、メーカーが違っても同一性能なのがTRと違って便利です。 最初の数字がフィラメントの電圧を表示しるのが普通ですが、例外もあり、主としてシルバニアが作ったロクタル球は頭に 7 がついていますが6.3Vです。 初期の球や特殊球はこの限りではありません。
アメリカの家庭用ラジオは殆どトランスレスの物が多く、傍熱球のヒーター温度が同等に達するようになっています。 軍隊用の無線機は電池で働くようになっている物も多く、A電池とB電池を使った物も見たことがあります。珍しく電池球のロクタル球を使ったオールウェーブ受信機で、AC電源使用時は出力球50L6のカソード電流で電池球を点火するようになっていました。

12.まとめ
 WVTRから始まりFEN東京、今はAFNととなった米軍放送局もすでに60年の歴史を経て、リスナーも初期の音楽関係者の最新情報を得る手段から、やがてFENを聴いて英語に強くなろう、と言った雑誌まで数冊でるように変化した時期もありましたが、現在では情報手段が発達し、音楽などは米国と同時に入手できるので、前ほど愛聴者がいないようです。留学経験者や帰国子女が多くなり、英語を流暢に話せる人が沢山いるのでこれらの変化は当然でしょう。                                                                       
 私の在職経験も60年の十分の一の6年でしかなく、この頃の日本と技術的格差の多い時代の経験だから それがかえって貴重な想い出となり、この物語を書くキッカケになったわけです、今のようにコピー機もなく、手書きで配線図などを書き写していたのに紛失して残念ですが、一部の熱心なファンのお陰でSP600などの配線が見れるのはインターネットの力が大きいのですが、それも限られた人気機種だけで、例えばRCAの放送局仕様のアンプなどの配線図は入手困難です。
 
 使用した各アメリカの機器のマニュアル(取扱い説明書)は非常に良くできていて感心します。どうも日本の特に家電製品の取説はその点下手で、特にデジタル化で、複雑になるにつれ、我々電気関係者でも理解するまで時間がかかります。 もっとも日本の家電は色々機能が盛り沢山で、若い人向きになり、親切な配慮があり過ぎのように感じるのは歳のせいでしょうか。
日本人はどうもオタッキーが多く、多機能を使いこなすことに喜びを見出すのが好きなのでしょう。 話題がそれてしまいました。
 
 話を戻してテープレコダーについての思い出は、AMPEX350がメインでしたが、この機械はキャプスタンがモーター軸その物で、モーターの軸の下側にフライホールが直接ついています。勿論2スピード切り替えですが、60サイクル用なので、前述の正確な電源でドライブします。
このAMPEXを使って再生ヘッドを二つ付け、テープをエンドレスに繰り返し再生する機能と、繰り返しエコーができるようなテレコを作ったことがあり、アメリカ人のチーフが感心していましたが、彼らはこうした工作は苦手なのでしょうか。
 
 民放に移って電音のテレコにはまだ電源が50サイクル一定ではなかったのでモーター直接のキャプスタンではなく、フライホールの外側にゴム輪があり、モーターが圧着して回転する方式で、キャプスタンが着脱出来て±2サイクル変換するようになっていたのは驚きました。日本の電源事情は昭和33年頃はまだこのような状態だったのです。
                                                                                
 ある時、我々の部屋にあったモニターアンプが周期的にプッと音が出てどうしても故障と思えず、思案投げ首していたところ、ふと外を見たら戦車に搭載したレーダの回転と音が一致しているのに気付き、トップ球6J7のグリッドの短いリード線にマイクロ波が飛び込んでいたのが原因でした。
その他、色々の想い出がありますが、稿を改めて書くことにし、一応この物語はこれで終わりにしたいと思います。
 AFNは日米安保条約がある限り、米軍と家族にニュースと娯楽を提供するのと、非常時の呼び出しにも使用しますので存在し続けます。TVはCATVですから、中波の局は絶対に必要なのです。
とりとめのない想い出話になりましたが、HPを提供して下さった井上さんに心より御礼申しあげます。 有難うございました。

著者紹介
宇尾博介さん  1928年(昭和3年)生まれ 元JH1XEC
旧早稲田大学専門部電気通信科卒 第一級無線技術士
1952年6月~1958年9月WVTR及びFEN東京に勤務
1958年10月~1983年7月ラジオ関東[現アール・エフ・ラジオ日本]に勤務
(財団法人)東京ケーブルビジョンを経て現在に至る。
かつてのwebには顔写真がありましたが、個人情報保護の観点から割愛させていただきました。
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blogオーナーから
転載をご快諾くださった井上様と宇尾さまに厚く御礼申し上げます。
 1960年頃だったでしょうか、アマチュア無線で交信した方が朝霞の送信所
(現在もあります)にお勤めときいて、厚かましく見学させていただきました。
確か、SonyからモノクロのポータブルTVが発売になったころでした。送信所スタッフ
は1時間毎に、沢山のメータを監視して電圧、電流などをログブックに記入していました。

別件  「古い通信型受信機の紹介」について
 井上様は、oldradio.netにMy Favourite Things ということで、古い通信型受信機各種の解説をされていました。マニアにはバイルブル的内容でした。oldradio.netはなくなりましたが、古いwebで閲覧できます!(たった今、確認済みです。)
内容は素晴らしいです。Weboxなどのweb全体をそっくりダウンロードするツールで
吸い上げて保存しておくことをおすすめします。